有馬裕之(ありま ひろゆき)

1956年、鹿児島県生まれ。京都工芸繊維大学卒業後、1990年、有馬裕之+Urban Fourthを設立。 主な作品に 「MA」「太宰府の住宅」「introspective」「ab」「second plate」「studio D」「M/異化された場」。 現在、コンセプトプログラム「earth lounge」を進行させている。

Apr 21 2008

kiitos

汐留の先に船溜りがある。
橋の欄干の扉を開けて狭い階段を降りるとすぐに潮風の匂いがする。
街の喧騒から離れ静かだ。眼前に黒い海面が迫って来る。
ここはたくさんの船が停泊する隠された秘密の場所。人影の少ないひっそりした
船溜り。
東京は海と接しているのだが、湾岸道路を歩いていても「潮風」を強く感じるこ
とが希薄なように思う。
しかし、急に潮風が匂うのはなぜだろう。
この扉が結界となっていて、「開ける」ということが鍵となって嗅覚が起動する
のだろうか?

船は溜り場を出て、築地横の狭い水門に向かい汽笛を鳴らしてゆっくりと抜ける
と、急に速度を上げた。
汽笛は水門での船同士の衝突を避ける為だ。
友人のプロデュースでkiitosという小さな船をデザインしたのが約2年程前だ。
ミシシッピー川に浮かんでいたフラットボートを改造してホテルの一室のような
空間を創った。
小さなキッチンがあって簡単な食事が出来て、皆で集まって音楽や映画なども楽
しめる。
船としては全く常識はずれのモノになったが、それが新鮮だと好評だ。
専門の船大工を使った細かい独特のディテールを十分に楽しんだ。

レインボーブリッジが近づいて来る。
少し向こうに台場が見える。風が強い。速度を落として停泊しゆっくりと漂い始
めた。
振り返ると品川の埠頭があって何艘かの大型船が停泊していて、その向こうに天
王洲の建物が列をなしている。
汐留のビル群や東京タワーなども見える。
しかし、毎回思う…この風景には強烈な奥行きが無く強いダイナミズムが欠けて
いてそっけないのでは。
陸と海の関係が分離しコネクションが弱く、風景がそっけない書割のように感じ
てしまうのだ。
そして最近では、それがむしろ東京湾の個性なのだろう‥とも思うようになった。
シニカルな意味では無く、極めて効率的な乾いた都市の表情が個性としてここに
ある…と。
近年、マンションなどが林立すればする程その印象は深まった。
NYでハドソンリバーやイーストリバーでの船で移動しながらの風景では
高層ビル群や低層の古い住宅などが近接し都市のダイナミズムがダイレクトに連
続していて人の息吹を感じる。
夜はさらにそれが増幅されツアーの目玉にもなっている。
水が積極的に利用され、ブルックリンやクイーンズなどへの人の動きが風景に参
加していて自分もその一人になったかのようだ。
明らかに東京湾はそれとは違う。

吉田修一の書いた「東京湾景」では
インターネットの出会い系サイトで知り合った二人はそれぞれの現実を抱えなが
ら、品川の倉庫/御台場のオフィスに居て、出会い/恋に落ち/裏切られ/実態
を知り/混乱し/変化し/結ばれる。
東京湾の風景を背景とした二人の葛藤…そこには風景への期待やロマンは無く、
倉庫やオフィスや寒々しい埠頭の今が描かれていて、そのそっけなさの中で
「愛」を描く‥というのが吉田の眼だ。
東京湾は「距離」の表現であり感傷的な風景は消されている。
女と男は違いを感じ、湾を移動しながら乾いたリレーを結び続ける。
そっけない風景が舞台としてあって、そうであるからこそ愛を描くんだという時
代への嗅覚。
一般に言うラブストーリーではなく東京湾の乾いた風景/愛。

船はレインボーブリッジの下を再度横切り、速度を上げて汐留に向かい始めた。
そして、いつものように水門をくぐり、浜離宮を横に見ながら船溜り場に到着した。
汐留のビル群が黒い水面に鈍くゆらいで映っている。
すでに夜の闇が迫って来ていて、様々な多量な光の群が行灯のように建物を浮か
び上がらせている。
船を降りて階段をのぼり、また欄干の扉を開けて汐留の車道に出た。
急に潮風の匂いが無くなったように思う。
黒い海面はもう見えない。
代わりに、車の騒音や帰り道を急ぐ人たちの声が急に大きく聞こえて来た。

12:42 PM

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