有馬裕之(ありま ひろゆき)

1956年、鹿児島県生まれ。京都工芸繊維大学卒業後、1990年、有馬裕之+Urban Fourthを設立。 主な作品に 「MA」「太宰府の住宅」「introspective」「ab」「second plate」「studio D」「M/異化された場」。 現在、コンセプトプログラム「earth lounge」を進行させている。

Oct 04 2007

ワンカット/ロングショット

ギリシャ神話に出て来そうな美しい森。
一人の男が現れて、兜/よろいをまとい、白馬にまたがって駆けさって行く。
その後を武器を取った部下達が一人また一人と追走する。
全ては同じリズムで行なわれていて、森は深く、光が神秘的に差し込んでいて、
幻想的な霧がたなびいている。
撮影しているカメラは、固定されて、全く動かず近づかず、ワンカット/ロングショットで完璧に
撮りきっている。
ここでは登場人物の表情や繊細な描写は無く、ショットを割って細かく物語を表記することも無い。
実像としてのリアルな森、虚像として登場人物の儀式。
ただそれを対比的にカメラは固定して描写するだけだ。

旅先で、久しぶりにテオ・アンゲロプロスの「アレクサンダー大王」を見た。
感動すると周辺に話し続ける悪い癖があるので
そうならないように静かにしようと思っているものの、
その自縛を忘れ「見た方がいいよ」と会う人ごとに言い続けるぐらいの映像だ。


アンゲロプロス04.JPG


遺跡/森/村/川などの実際のギリシャを舞台にして、異様な緊張と迫力ある
シーンを映像は淡々と編集的な繊細さを無視してワンカット/ロングショットで撮っている。
さらに言葉を借りると、そこには「編集された映画では切り捨てられてしまう死んだ時空間に価値を与えたい。」
ということへの実践がある。

ギリシャは明るく光溢れる風景の中にかつての繁栄した遺跡が点在している。
「ギリシャには古典が厳然とあり、近代は失敗し残骸化し、そして現代は浮遊して
しかもそれらが同時に存在している…」
今でもギリシャでは古典が実像であり、近代/現代は虚像であるとでも言いたげに見える。
彼のことばを借りれば「ギリシャ人は死んだ石材を愛撫しながら育ちました」ということだ。
厳然とした実像としの「美」、それを舞台にしながら虚像としての「人の営み=儀式」を撮り続けて来たのがこれまでの彼の映画群だ。対比させながら美しい映像に高めている。

舞台は近代萌芽、列強が影響を誇示しようとするギリシャ、その中での政治的画策、コミュニスト、
カリスマとその否定…など盛りだくさんである。ハラリスの演出音楽がすばらしい。
盗賊の首領「アレキサンダー大王」と呼ばれている主人公の衣装は歴史的な過去のものであり、
彼の名前もまたそうだ。
アレキサンダー大王は小島の刑務所から脱獄し、イギリスの貴族を人質にし、
ギリシャ農民の鉱山を狙う企みの阻止/身代金/名誉回復などを求める。
しかし結果的に彼自身が独裁的になり、行き場を失い、政府軍にも敗れ、村人の憎悪によって存在感を無くし、抹殺されて行く。しかも彼はほとんど無言のまま…心理描写や説明はほとんどされない。

長回し(5分はあたり前/10分もあります)/360°パン/カット内の時間の転移/クローズアップやモンタージュの拒否/登場人物をオ ブジェ のように使用した場面転換など。
それらは通例の映画手法と離れたものだ。それらによって全てが意図的に進行する。
観客は「この場面は…いったい?」になることがしばしば。
遠い過去が固定され、それから推移した近過去と…そして今おきている現実は
フローのように消え去って行く。
それは現実に捨てられていた寒村ドツイコ村を撮影場所に選んで完璧になった。
この村はギリシャの民衆の捨てがたい過去の夢の場なのだ。

村での政府軍との戦闘の後、アレクサンダーという名の少年が、
一人、馬に乗って脱出してアテネの街に入って行くという示唆的なシーンで物語は終わる。
しかもそのアテネは現代のリアルな街の映像を使用している。捨てられた村ドツイコとは対照的だ。
夕暮れ時‥夜明けが来るかどうかわからない‥車のクラクションなどに溢れた街‥少年はその中に溶け込んで行く。

アンゲロプロスは「シークエンスショットとディープフォーカスはオーソンウエルズから
時間とカメラ外の空間の使用については溝口から影響を受けた」と語っている。


少し古い映画だが、秋の夜長に見るディープなアクシデントとしてはお薦めである。
ただしギリシャでは「子供を寝かしつけるにはアンゲロプロスの映画を見せるのが一番だ。」と
言われていることもお忘れなく。


アンゲロプロス02.jpg アンゲロプロス01.jpg アンゲロプロス03.jpg


6:36 PM | コメント(1)