
1956年、鹿児島県生まれ。京都工芸繊維大学卒業後、1990年、有馬裕之+Urban Fourthを設立。 主な作品に 「MA」「太宰府の住宅」「introspective」「ab」「second plate」「studio D」「M/異化された場」。 現在、コンセプトプログラム「earth lounge」を進行させている。
知られているようにCy Twomblyの画風は子供が書いたようなタッチで素っ気なく躍動する。
私にはどの画も3次元の動きを2次元でなんとか表現しようとしているように思えて、その限界が見据えられて面白い。
よくある旦那芸のアートという感じは微塵も無い。
記号/記憶/記者…この落書きのような表現の向こうに、彼の「指」「手」「足」…「身体」の息づかいのリアルを感じる。そして私は、見るたびに画面の線に 呼応してしまい首が傾いたり背中が傾斜したり、視線が彷徨ったりしてしまう。
通例から逸脱して、ルーズな動きに身を任せ、現実をフィルター化しその世界からリアルを感じさせる手法がある。
昨日深夜、帰るとドア横に手紙が置いてあった。
開封して読むと古い友人からのものであった。
今の近況と社会/政治に対しての彼女なりの思念の言葉が書き添えられていた。
古い友人に時間を経て手紙で再会するというのはdeja-vuな感覚が呼び起こされてしまう。
彼女は現代アートの世界の真ん中に居てのめり込んでいた人。
たくさんのアーティストをキューレートして活動を行っていた。
スーパーアバンギャルドな流れを生み出そうと努力していたが、
しかし、数十年経って彼女が導き出した結論が「アートにはもはや表現するものが無い→廃業」というものだった。
数年前に私のスタジオに訪ねて来てくれた時もその視点は変わる事が無かった。
投機的な芸術のみへの金の集中/素人化するラインナップ/
表現する主題の喪失/「環境」と言うお題による社会芸術ジャンルの無理な延命…そんな話しをした記憶がある。
今、彼女はTwomblyの世界的コレクターだった人と行動を共にしていると聞いている。
その状況は、私が想像出来る範囲には無いが、
彼女の動きとTwomblyの線の動きが符号しているように思えてならない。
彼女の言うように芸術にはもう表現する主題が無いのか?
新しい主題は必要なのか?…Twombly:主題の欠如した「落書き」の二次元が 挑発している。
今日は何故か空間が乾いている。外は雨が降っているのだが。
電話が鳴っている。出ると…友人が一緒にマイアミに行かないかと誘っている。
「OK」と即答した。「小さくてハリケーンに負けない建築を」とのオファーがあるらしい。
さて、ニュースではこれからさらに雨そして台風4号が来る…。

4:56 PM
アートは、それを見る人がいる限り、なんらかのインパクトを持つ可能性がある、ゼロではない、と思いたいです。アートという概念にすら触れられずにいる人は、世界に大勢います。表現するものがない、というのは、あまりに限られた世界からモノを見ていはしませんか?・・・と感じます。
さて、Twomblyの線を見て、ベン・シャーンの線を思い出しました。異質かもしれませんが、線が語りかけてくるありように、近しいものを感じます。雑念とは無縁、ですが自己を客観視する冷徹さを秘めている線ではありますまいか。
武満徹の直筆楽譜も、非常に端整ではありますが、そこに込められた音の独創と情熱が、観るものに何かを迫るのでした。Twomblyの線が、思い出させてくれました。
投稿者 D : October 10, 2007 12:30 AM