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<title>DAYS OF DJ</title>
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<modified>2008-11-18T05:33:03Z</modified>
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<title>作品とテクニック</title>
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<issued>2008-11-18T02:23:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">今日の朝、ＮＨＫの「名曲探偵アマデウス」という番組でラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲が取り上げられていた。思わず真剣に見てしまい、おかげで電車を１本乗り遅れてしまった。 ラヴェルのこの曲は展開が比較的単調なことあるいはその形式などから専門家の間ではあまり評価が高くないらしい。しかし、（いささか紋切り型の表現になってしまうが）その、「今は失われた高貴なものへの追慕」、のような情感を抱...</summary>
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<![CDATA[<p>今日の朝、ＮＨＫの「名曲探偵アマデウス」という番組でラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲が取り上げられていた。思わず真剣に見てしまい、おかげで電車を１本乗り遅れてしまった。</p>

<p>ラヴェルのこの曲は展開が比較的単調なことあるいはその形式などから専門家の間ではあまり評価が高くないらしい。しかし、（いささか紋切り型の表現になってしまうが）その、「今は失われた高貴なものへの追慕」、のような情感を抱かせる旋律はいちど聴いたら忘れられないとても印象的なものだ。</p>

<p>今風に言うと、ラヴェルにしてはどちらかと言うとキャッチーな曲なのだが、番組では、空虚五度や掛留音といったテクニックを使って上のような情感をかもし出しているのだという。へ～っと思い、電車の中で、聴いてみた。ラヴェル自身から直接ラヴェル作曲のピアノ曲の演奏法の手ほどきを受けたというペルルミュテールの演奏。満員電車のなかで、ひとり音楽世界に深く潜行してしまった。</p>

<p>聴きながらふと思い至ったのは、そういったテクニックを駆使しても曲自体が良くなければ何にもならないとう至極あたりまえのことだった。テクニックが曲の良さを引き立てる、あるいはその良さと不可分であっても、テクニックのためのテクニック（テクニックを披露するために使われたテクニック）などは何にもならない。そもそも専門家でなければそんなテクニックなどには気が付ないだろう。テクニックを知悉していなくとも感動を与えられなければ名曲の資格はない。テクニックを知っていることによって、曲の味わい方に広がりが出るということはあっても、それ自体が目的となっては主客転倒というものだ……などと考えていたら、ああ、建築もまったく同じだと気がついた。</p>

<p>だから、ディテールのためのディテールなどにははっきり言って興味がない。空間が素晴らしいという体験と同時かやや遅れてその空間を実現させるためのディテールに意識がいくのであって、その逆ではない。ディテールから考えられた空間が良くないということではないが、ディテールのみにこだわった空間でいいものがはたして多く存在するだろうか？ 素晴らしい空間では必ず、空間とディテールの間でフィードバックの執拗な繰り返しがデザインの際にはなされている。DETAILという名前がついた雑誌だが、そのことは肝に銘じて編集を行いたいと思っている。<br />
</p>]]>

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<title>エチカ～ココロにキク本</title>
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<modified>2008-10-21T09:46:24Z</modified>
<issued>2008-10-21T09:18:11Z</issued>
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<created>2008-10-21T09:18:11Z</created>
<summary type="text/plain">タモリが司会をする「エチカの鏡」というテレビ番組が始まった。まさかとは思ったが、エチカというのはスピノザの著書から取られたそうだ。番組では、ラテン語で「倫理」を意味するこの語を、「人の生きる道」と解釈しているのだという。そして、全世界から集められた「感動話」が紹介されるらしい。 番組自体はまだ見ていないのだが、内容はスピノザの『エチカ』とはまったく関係がないものだろう。たとえば、『エチカ』第四部の...</summary>
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<![CDATA[<p>タモリが司会をする「エチカの鏡」というテレビ番組が始まった。まさかとは思ったが、エチカというのはスピノザの著書から取られたそうだ。番組では、ラテン語で「倫理」を意味するこの語を、「人の生きる道」と解釈しているのだという。そして、全世界から集められた「感動話」が紹介されるらしい。</p>

<p>番組自体はまだ見ていないのだが、内容はスピノザの『エチカ』とはまったく関係がないものだろう。たとえば、『エチカ』第四部の冒頭には次のような言葉がある。</p>

<p>「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部でこの原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした」（岩波文庫より）</p>

<p>そして、数学的な証明の手続きを経て語られる同書の最後に置かれた「定理42」には、次のようなくだりがある。</p>

<p>「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである」（同上）</p>

<p>宗教的な言説とはまったく逆のことをスピノザは言っている。ここには、価値の「価値転換」（ニーチェ）がある。この強靭な思考はテレビによってたやすく「消費」されてしまうようなヤワなものではない。</p>

<p>何ものかが凝固して身動きが取れなくなったかのような感覚をもったときにはこの『エチカ』がキク。何頁か読めば、いくらかしなやかで軽やかになった自分が見出せるはずだ。</p>

<p>１回読んでオワリではなく、何度でも立ち返るべき本。本としては、読みやすいワイド版がオススメです。<br />
</p>]]>

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<title>ポロ氏との、20数年ぶりの再会</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.reedjp-form.com/blog_detail/archives/2008/10/post_54.html" />
<modified>2008-10-10T05:36:02Z</modified>
<issued>2008-10-10T03:38:31Z</issued>
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<created>2008-10-10T03:38:31Z</created>
<summary type="text/plain">ノーベル賞なんてあまり興味はないのだけれど、昨日まで日本人が3人も受賞。文学賞も取っちゃって・・・なんて思って文学賞の発表を待っていたら、なんと受賞はル・クレジオ。テレビで名前を読み始めたとき、その比較的長い名前の前半はジャン＝マリ・ギュスターヴというもので、なんだそんなの知らないや、なんて思ったとき、次に続く残りの名前はル・クレジオだった。あ～そういえばそんな人いたっけな。けっこうもういい歳だろ...</summary>
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<![CDATA[<p>ノーベル賞なんてあまり興味はないのだけれど、昨日まで日本人が3人も受賞。文学賞も取っちゃって・・・なんて思って文学賞の発表を待っていたら、なんと受賞はル・クレジオ。テレビで名前を読み始めたとき、その比較的長い名前の前半はジャン＝マリ・ギュスターヴというもので、なんだそんなの知らないや、なんて思ったとき、次に続く残りの名前はル・クレジオだった。あ～そういえばそんな人いたっけな。けっこうもういい歳だろう、と書棚から本を取り出して確認すると、1940年生まれの68歳。デビュー作の『調書』は23歳のときの出版で、これで一躍有名になったのだからずいぶんと早熟な人だったのだ。</p>

<p>そういえば、まだ2～3冊あったはずだとよく探してみると、やはりあと3冊もあった。でも、実はそのうちの1冊もまともに読んでいない。いつか読むつもりで入手はしたのだが、ずっとそのままになっていたのだ。しかし『調書』だけはトライしたことはして、たしか数頁読んだだけでやめてしまったのだった。つまらない、というよりは濃厚すぎて、そのうち読めばいいや、と思ってそのまま20数年たってしまったわけだ。</p>

<p>その『調書』を朝の電車のなかで数頁読んでみた。なんで以前読めなかったのが分からないくらいっすっと入ってきて気持ちがいいくらい（ちょっと大げさか）。読み進めてみないとまだ分からないが、主人公のアダム・ポロという人物はどこかベケットの登場人物を思わせるところがある。比較すると、ポロのほうが若くてあまり「消尽」していない感じなのだが。無事読み終えることができたら、またここで感想を書いてみようと思う。</p>

<p>ところで、この本が出版された70年代にはまだ読み応えある本がふつうに書店で見つけられたものだ。しかしいまや文学系の出版社でも主力は軽めのものばかり。この受賞を機に、20世紀フランス文学の名作を再度出版してもらいたいものである。<br />
</p>]]>

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<title>1st以前のソフト・マシーン</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.reedjp-form.com/blog_detail/archives/2008/09/post_53.html" />
<modified>2008-09-30T02:11:07Z</modified>
<issued>2008-09-30T01:42:56Z</issued>
<id>tag:www.reedjp-form.com,2008:/blog_detail//2.459</id>
<created>2008-09-30T01:42:56Z</created>
<summary type="text/plain">今日は昨日書いたケヴィン・エアーズがいた時代のライブを収録したＣＤをiPodで聴きながら出社。 研究者が、自転車修理工をしている当時の録音技師のところで発見したテープから製作されたもので、はっきりいって音のほうはいいとは言えない。特にヴォーカルはほとんど聞こえないくらいの曲もあってかなり厳しいが、反面、キーボードに関してはかなりいい状態で収録されている。 エアーズがソフト･マシーンの初期ライブでど...</summary>
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<![CDATA[<p>今日は昨日書いたケヴィン・エアーズがいた時代のライブを収録したＣＤをiPodで聴きながら出社。</p>

<p>研究者が、自転車修理工をしている当時の録音技師のところで発見したテープから製作されたもので、はっきりいって音のほうはいいとは言えない。特にヴォーカルはほとんど聞こえないくらいの曲もあってかなり厳しいが、反面、キーボードに関してはかなりいい状態で収録されている。</p>

<p>エアーズがソフト･マシーンの初期ライブでどんな演奏をしているのかがいちばんの興味だったのだが、彼のヴォーカルとギターが聴ける1曲以外は存在感が薄い（この曲はマイク・ラトリッジのキーボードとのからみがなかなかいい感じで、シド・バレットのソロのあの奇妙な弛緩感とはまた違った独特のゆるさが魅力）。かわりに聴かせてくれるのがラトリッジのキーボードだ。1st収録の曲も含め、この67年には、70年発表の3rdで全面展開する怒涛のキーボードがすでにかなりの完成度に達しているように聴こえる。</p>

<p>1stと2ndの実験的な遊戯性と3rdのシリアスさが同居するこのアルバム（タイトルはMiddle Earth Masters）、ソフト・マシーンの１～３あたりが好きな人にはかなりオススメ。</p>]]>

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<title>ピーターとロバートの、こころうた</title>
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<modified>2008-09-30T01:42:46Z</modified>
<issued>2008-09-29T05:43:44Z</issued>
<id>tag:www.reedjp-form.com,2008:/blog_detail//2.458</id>
<created>2008-09-29T05:43:44Z</created>
<summary type="text/plain">なぜか20数年ぶりにプログレにはまっている。 以前と違ってジャズ系のものにどうも惹かれるようで、たとえばジェネシスとかは前ほどグッとこないけれども、ヴァン・ダー・グラフなどはかなり聴きこんでいたにもかかわらずいまだにズシンと心に響いてくる。 バックもいいが、やはりピーター・ハミルのウタが大きいと思う。再結成してコンサートを開いた際の映像がYouTubeで見られるが、驚くことに、60近くなのに声量も...</summary>
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<![CDATA[<p>なぜか20数年ぶりにプログレにはまっている。</p>

<p>以前と違ってジャズ系のものにどうも惹かれるようで、たとえばジェネシスとかは前ほどグッとこないけれども、ヴァン・ダー・グラフなどはかなり聴きこんでいたにもかかわらずいまだにズシンと心に響いてくる。</p>

<p>バックもいいが、やはりピーター・ハミルのウタが大きいと思う。再結成してコンサートを開いた際の映像がYouTubeで見られるが、驚くことに、60近くなのに声量もあるし、美しい高音も以前のままとはいえないがちゃんと出ている。やせた体型も変わりない！　実はプログレという範疇でくくるのには違和感があるのだが……魂のウタといったらいいのか……。</p>

<p>同じウタで気に入っているのがロバート・ワイアット。学生の頃は『ロック・ボトム』をよく聴いていたが、その後、メジャーになってからの作品はまったく知らなかった。ソフト・マシーン時代のものから『ベスト』で聴けるものまで、その前後の曲も聴いてみたが、良かったのはマッチング・モウル時代のもの。Signed Curtainは寝ぼけたままで歌っているような出だしで、声の輪郭もはっきりしないような不思議な歌唱なのだが、『ベスト』に収録されたヒット曲のように〈意外と〉きれいに歌っているものよりもダイレクトに心に響いてくる。</p>

<p>God Songというのも気に入っている。Ultra Livingが20数年経ってから取り上げている曲だが、これもとても奇妙な感触で、一度聴いたら忘れられない強度がある。ソフト・マシーン時代のMoon in Juneもいい。先週末にはマシーンの1st以前のケヴィン・エアーズ在籍時のアルバムを入手。しばらくは、プログレで散財が続きそう。<br />
</p>]]>

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<title>必然的にも残念な少年</title>
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<modified>2008-09-25T05:05:11Z</modified>
<issued>2008-09-25T04:43:08Z</issued>
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<created>2008-09-25T04:43:08Z</created>
<summary type="text/plain">『20世紀少年』を観た。 結論から言うと、ハズレでした。単行本で22巻もある原作を３つに分けて、それぞれを2時間強にまとめるわけだから映画化の困難はもちろん予想できたわけだけれども、でも、ハズレのいちばんの原因はそこにはたぶんなく、漫画というメディアから映画というメディアに変わったときに映画独自の質を獲得するための何の「飛躍」もなされていないことがノレなかった理由だと思う。 原作を読んでいないので...</summary>
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<![CDATA[<p>『20世紀少年』を観た。</p>

<p>結論から言うと、ハズレでした。単行本で22巻もある原作を３つに分けて、それぞれを2時間強にまとめるわけだから映画化の困難はもちろん予想できたわけだけれども、でも、ハズレのいちばんの原因はそこにはたぶんなく、漫画というメディアから映画というメディアに変わったときに映画独自の質を獲得するための何の「飛躍」もなされていないことがノレなかった理由だと思う。</p>

<p>原作を読んでいないので推測なのだが、主要なエピソードのダイジェスト版以外のなにものでもないのではないか。それにテレビ画面で観ても大して印象が変わるとも思えないつくり（監督がＴＶ出身なのだが、この点悪い予感が当たってしまった）。ＴＶでよく観る顔のオンパレードも興ざめ・・・。これだけそろうと残念な結果になるのは仕方ないだろう。</p>

<p>と書いてはみたものの、映画館から出て後ろを歩く若者たちは「かっこよかたな～」「よかったよかった」と会話していた。人もよく入っているようで、ということはわたしの意見はやはり少数派ということになりましょうか。</p>

<p>ところで、ＤＪ岩下がわたしが強制的にブログを書かせていると書いているが、その通りで、プログレなる言葉を知らない人がどんな感想をもつのか知りたかったのだ。一応訂正を入れときますが、60年代の曲ばかりでなく、70年代の曲も半分以上入っています。</p>

<p>2枚目をつくって渡したので、来週月曜あたりにまたプログレについてのＤＪ岩下の感想が読めるかと。</p>]]>

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<title>溝口映画についてのスケッチ　番外編３</title>
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<modified>2008-07-21T05:52:23Z</modified>
<issued>2008-07-21T05:37:29Z</issued>
<id>tag:www.reedjp-form.com,2008:/blog_detail//2.447</id>
<created>2008-07-21T05:37:29Z</created>
<summary type="text/plain">溝口とゴダール DJ  『お遊さま』（一九五一）という映画がありますが、あの映画の京都・嵐山で撮られた冒頭の部分で堀雄二が自分の見合いの相手（乙羽信子）と間違って田中絹代に一目ぼれをする戸外のシーンや、田中と堀と乙羽の三人に行った物見遊山の夜のシーンとかは素晴らしいですよね。 JLG　後者のシーンは、居たたまれなくなって他の二人から離れて一人になった乙羽が、川だか池だかの近くまで降りていき後を堀が...</summary>
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<![CDATA[<p><strong>溝口とゴダール</strong><br />
<strong>DJ</strong>  『お遊さま』（一九五一）という映画がありますが、あの映画の京都・嵐山で撮られた冒頭の部分で堀雄二が自分の見合いの相手（乙羽信子）と間違って田中絹代に一目ぼれをする戸外のシーンや、田中と堀と乙羽の三人に行った物見遊山の夜のシーンとかは素晴らしいですよね。<br />
<strong>JLG</strong>　後者のシーンは、居たたまれなくなって他の二人から離れて一人になった乙羽が、川だか池だかの近くまで降りていき後を堀が追っていくというシーンでしたね。あそこでわたしはいつも、ゴダールを思い出してしまうんです。八〇年代以降のゴダールの映画には木の枝がしだれかかった川のほとりでの印象的なシーンがいくつかありますよね。それと、同じく八〇年代以降のゴダール映画では、鳥の鳴き声がよく入っていますが、あの物見遊山の夜の森ではまさにその「ゴダールの鳥」が鳴いているんです。<br />
<strong>DJ</strong>  鳥の種類は違うようですが、そういわれてみるとそうかもしれない。ゴダールは溝口のお墓参りをしているぐらいですから、まったくの偶然とは言えないかも……。<br />
<strong>JLG</strong>  そもそも、ゴダールの『気狂いピエロ』（一九六五）や『軽蔑』（一九六三）の最後の海でのパンは溝口ですよね。ゴダールは確か、『山椒太夫』（一九五四）のラストのパンを絶賛していたと思いますが、パンと言えば、『武蔵野夫人』（一九五一）のラストのパンも素晴らしいと思いますよ。</p>

<p><strong>溝口とアクション</strong><br />
<strong>JLG</strong>  『元禄忠心蔵』という映画はもうひとつ不思議なところがあって、クライマックスであるはずの討ち入りのシーンがまるごと省かれていて、討ち取った吉良上野介の首を持って大石内蔵助が浅野内匠頭の墓前に報告してすましてしまっているんですね。<br />
<strong>DJ</strong>  いつの時代の発言か分からないのですが、溝口は、立ち回りの前と後がドラマだ、チャンチャンバラバラはショーだ、俺はショーは撮らないというようなことを言っています。<br />
<strong>JLG</strong>  『名刀美女丸』（一九四五）の仇討ちのシーンとかの殺陣なんて見ると、この人ほんとにこういうのに興味ないんだなって感じですが、『新・平家物語』（一九五五）の比叡山延暦寺の法師たちと対峙するシーンは迫力あって、雷蔵の立ち回りも見事でしたね。<br />
<strong>DJ</strong>  二〇年代には、激しい殺人のシーンのある作品とかも溝口にはあったらしいですね。<br />
あと、サイレント時代にはほんとにいろいろなことをやっていて、二〇、三〇年代にはドイツやソビエトなどの当時の前衛的な試みを真似たりとかもやっていたみたいですね。後年、昔はモンタージュやカットバックも大いにやったけど、今はそんな若造みたいなことはできない、なんて発言をしてますが。<br />
</p>]]>

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<title>溝口映画についてのスケッチ　番外編２</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.reedjp-form.com/blog_detail/archives/2008/07/post_50.html" />
<modified>2008-07-17T07:22:56Z</modified>
<issued>2008-07-17T03:20:57Z</issued>
<id>tag:www.reedjp-form.com,2008:/blog_detail//2.446</id>
<created>2008-07-17T03:20:57Z</created>
<summary type="text/plain">昨日の「続き」です。別冊の文章と一部ダブっています。 溝口の「手法」 JLG  『東京行進曲』にはフラッシュバックがありましたね。男が運命の女性との出会いの時を思い出すシーンですが、ほほえましいもので……。オーバーラップでいうと、『朝日は輝く』（一九二九）でもやっていました。あの頃のはやりだったのでしょうか。『朝日』は、大阪朝日の社屋の電光掲示板にタイトルを流すという粋な始まりで、ボートなどの乗り...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>昨日の「続き」です。別冊の文章と一部ダブっています。</p>

<p><strong>溝口の「手法」</strong><br />
<strong>JLG</strong>  『東京行進曲』にはフラッシュバックがありましたね。男が運命の女性との出会いの時を思い出すシーンですが、ほほえましいもので……。オーバーラップでいうと、『朝日は輝く』（一九二九）でもやっていました。あの頃のはやりだったのでしょうか。『朝日』は、大阪朝日の社屋の電光掲示板にタイトルを流すという粋な始まりで、ボートなどの乗り物を使って現場に急行するシーンの、躍動する運動感は新鮮でした。共同監督での作品ということになっていますが、『滝の白糸』（一九三三）の冒頭の裸馬のシーンの躍動感などからすると、あのシーンも溝口によるものなのかもしれませんね。あの躍動感は戦後の溝口からはなかなか想像できないものですが。あと『朝日』では、社内で記者たちが忙しく立ち働くのを移動で撮っているのも印象的ですね。<br />
『祇園の姉妹』はその移動撮影で始まりますが、家のかなり奥深くまで移動した後にカメラがパンをする。と同時に、オーバーラップして、そこで聞こえていた声がそのまま響く別の部屋へとカットが移る。あるいは、山田五十鈴が居候の志賀廼家弁慶について梅村蓉子に言った文句を次のまったく別の時間、別の空間のシーンの梅村が答えるといったことまでやっている。持続ということを意識しているのは間違いないですね。<br />
<strong>DJ</strong>  今のお話でエリック・ロメールの映画をふと思い出しました。たぶん八〇年代の作品だったと思いますが、若い女の子二人の室内の会話シーンで、カットバックで彼女たちを交互に見せるときに、片方の台詞が終わらぬうちにもう片方のカットに変わって、決して流れを途切れさせないんですね。そしていよいよ会話が盛り上がってくると、じっとしていられなくなったカメラが彼女たちに徐々に近づいていく……。<br />
<strong>JLG</strong>　ロメールのそういったシーンというのはあたかもカメラが欲情しているかのようですよね。<br />
話を溝口に戻すと、さきほどのパン＝オーバーラップのカットの次に、弁慶が妻にお小言を言われて怒りふと近くまでタバコを買いに行くような気軽さで家を出ていってしまうのですが、この狭い路地を歩く弁慶をとらえたショットがとても生々しくて印象に残っています。<br />
<strong>DJ</strong>　『祇園の姉妹』での弁慶という俳優の飄々としたいい加減さみたいなものは、ジャン・ルノワールのミシェル・シモンにも通じるのではないでしょうか。<br />
<strong>JLG</strong>　あるいは、ハワード・ホークスにおけるウォルター・ブレナンのようでもある。溝口は、弁慶という役者が面白くて使いすぎてしまった、なんていう話もしてますからね。<br />
<strong>DJ </strong> さきほど持続ということを言われましたが、持続というと溝口の場合、自然に長回しを連想しますが、あの長回しというのは、「人間の心理を盛りあげていきたい」ということで自然に選ばれた手法なんだそうです。「一つの構図の動きの中で、人間の心理が盛りあがって来る。そいつを、カットして、ポツンと切るのがおしくなるんだ。そのまま、押せるだけ押していきたい」ということでああいう手法になったんだと、溝口は語っています。さらに、「永い間、サイレント映画の芝居から脱し切れなかったぼくは、あのころ、クローズアップによる心理描写から逃れようとして、いきおい、ああいう手法を」選んだんだとも。<br />
<strong>JLG</strong>　その通りだと思いますよ。最近の日本の映画でホテルだかを舞台にして長回しで撮られているショットをテレビでちらっと見たことがありますが、ああいったものとは対極的に、何ものかの生成が溝口の長回しにはあるわけですよね。決して奇をてらって選ばれた手法ではない。<br />
<strong>DJ </strong> 長回しでちょっと驚いたことがあって、戦時中に撮られた『元禄忠臣蔵』（一九四一、一九四二）で、武家屋敷の外にあったカメラがクレーンで室内まで入って行くところなどは、カメラと一体化してほとんど疑似体験をしているような錯覚さえ受けましたし、あるいはどこのシーンだったか、武家屋敷を捉えたカメラがとてもゆっくりと動いて……。<br />
<strong>JLG</strong>  ああ、ありましたね。それはよく覚えていますが、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』（一九六八）のストローブ=ユイレは、あのカメラの動きを見て触発されさらに先鋭化したものを撮ったのでは？なんて考えてしまいますよね。<br />
<strong>DJ </strong> すでに太平洋戦争に突入していた時期にじっくりと腰をすえて長回しなんてやっていた。しかも、最後のほうでは討ち入りの志士の恋物語を不意に挿入して盛り上げてしまう。相手は高峰美枝子でしたが、どうやって軍部のチェックをごまかしていたんでしょうか。<br />
</p>]]>

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<title>溝口映画についてのスケッチ 番外編</title>
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<modified>2008-07-17T06:03:42Z</modified>
<issued>2008-07-16T04:33:06Z</issued>
<id>tag:www.reedjp-form.com,2008:/blog_detail//2.445</id>
<created>2008-07-16T04:33:06Z</created>
<summary type="text/plain">7月号別冊の『映画の発見！』発売から約２週間経ちました。追加注文もたくさんいただき、おかげさまで売れ行き好調です。 この号で「持続と強度　溝口映画についてのスケッチ」という短い文章を書いてみたのですが、これは内容的にはスケッチのスケッチぐらいのもので、実は架空のインタビューの形式でまとめようと思っていたのがうまくまとまらず、あのような形になったのですが、その幻の（？）溝口論（？）の冒頭を以下に引用...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>7月号別冊の『映画の発見！』発売から約２週間経ちました。追加注文もたくさんいただき、おかげさまで売れ行き好調です。</p>

<p>この号で「持続と強度　溝口映画についてのスケッチ」という短い文章を書いてみたのですが、これは内容的にはスケッチのスケッチぐらいのもので、実は架空のインタビューの形式でまとめようと思っていたのがうまくまとまらず、あのような形になったのですが、その幻の（？）溝口論（？）の冒頭を以下に引用します。興味のある人は読んでみてください。ジャン=ルイ・ゴドーというのは、略すとＪＬＧ、つまりジャン＝リュック・ゴダールと同じになるのでつけてみた名前です。</p>

<p><strong>『歌麿をめぐる五人の女』の軽さと田中絹代</strong><br />
<strong>DJ</strong>  今日は、溝口の映画を観たことがきっかけとなって日本に移住までされてしまったゴドーさんにお話をうかがえるということで楽しみにして来ました。<br />
<strong>ジャン=ルイ・ゴドー</strong>（以下、<strong>JLG</strong>）　実は、ここ数年、映画からはずいぶん遠ざかり、映画館に足を運ぶことも少なくなってしまって、はたしていまわたしが溝口を語るにふさわしい人間なのかどうか……。しかし、今日のために、何本かは友人からビデオを借りて出来る限り見直してきました。まずは、そこで気がついたところからお話しましょうか。<br />
<strong>DJ</strong>  何を見られたんですか？<br />
<strong>JLG</strong>　『歌麿をめぐる五人の女』という映画がありますね。一九四六年の作品ですが、この田中絹代がいいんですよ。<br />
<strong>DJ</strong>  溝口映画の女優というと、山田五十鈴や京マチ子、さらに木暮実千代もいますが、まずは田中絹代ということになるのでしょうか。しかし個人的には、あまりピンとこないというか……。<br />
<strong>JLG</strong>　そうですね。小津では原節子、成瀬なら高峰秀子という女優がいて、それぞれなくてはならない存在ですね。特に高峰が成瀬との長い協働の中で女優として到達した地点というのは目覚しいものがあったんじゃないでしょうか。しかし、溝口の作品の田中の場合は、この役はこの人でいいのだろうかというのがいつも頭から離れない。『雨月物語』（一九五三）の宮木役もそうだし、『お遊さま』（一九五一）や『武蔵野夫人』（一九五一）でもそうですね。でも、『歌麿』の田中にはそういう違和感があまり感じられない。ほかの登場人物もそうですが、奔放でどこかおおらかなんです。<br />
<strong>DJ</strong>  そう言えばそうかもしれない。ほかの溝口映画に比べて、『歌麿』の田中は少しアクティヴな感じも受けますね……。<br />
<strong>JLG</strong>　『歌麿』で水茶屋の女を演じる彼女は、自分をおいて花魁と駆け落ちしてしまった男を捜しに一人で遠方まで行って強引に連れ帰ってくる。最後には、再度自分を裏切った男を花魁ともども殺してしまいますが、そのあと、「自分は間違っちゃいない、自分をだましてほどよい恋や損得の恋なんかできるもんか」、さらに、自分は「思いのまんま生き抜いたんだ」とまで言い切るんですよね。<br />
<strong>DJ</strong> そのあたり、『浪華悲歌』（一九三六）や『祇園の姉妹』（一九三六）での山田五十鈴演ずる女性にも通ずるような気の強さにも思えますが、どうも江戸の軽さというかおおらかさがあるような感じがしますね。<br />
<strong>JLG</strong>  もうひとつ気がついたのは、田中が駆け落ちした二人を追って海だか湖だかの近くにある村まで行き着くんですが、そこでのシーンが妙に生々しい。これには、ドラマの時間にわれわれの生の時間がふっと接続されてしまったような不意打ちを受けましたね。<br />
<strong>DJ</strong>  『東京行進曲』（一九二九）の冒頭の東京の風景もそんな感じですね。八十年近く前の東京のはずなのにそんな不思議な感触がある。<br />
<strong>JLG</strong>  実は田中が意外にもいいと思えた映画がもうひとつあって、『西鶴一代女』（一九五二）で、体を売るところまで堕ちた田中が自分の産んだ松平家系の若殿を庭から拝顔するというシーンでのバストショットなんですが、ここでの田中は母の気高さとでもいうようなものを強く湛えていて……。<br />
<strong>DJ</strong>  そうですね。そういえば、あのシーンでの筝を使った音楽も印象的でした。<br />
<strong>JLG</strong>  斎藤一郎という人の手になるものですが、母子の再会を盛り立てるような派手な音楽の使い方で、溝口ではちょっとああいうのは珍しいんじゃないですかね。<br />
</p>]]>

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<title>サリーちゃんの、こころうた</title>
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<modified>2008-07-18T05:11:52Z</modified>
<issued>2008-05-08T03:13:45Z</issued>
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<summary type="text/plain">火曜日、健康のために小田急線の２駅分をてくてく歩く。新百合ヶ丘でお茶した後、散歩を再開。駅から３、４分程度のところで駅から続く歩道と直交する緑道を発見、予定を変更してその緑道のゆるやかな上り坂を上っていく。そのときわがiPodではアン・サリーの曲がかかっていたのだが、爽やかな風も吹いていて体が一瞬ふわっと軽くなったような感覚に。緑道は300ｍくらいで途切れてしまったが、その先になんと1万㎡超の公園...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>火曜日、健康のために小田急線の２駅分をてくてく歩く。新百合ヶ丘でお茶した後、散歩を再開。駅から３、４分程度のところで駅から続く歩道と直交する緑道を発見、予定を変更してその緑道のゆるやかな上り坂を上っていく。そのときわがiPodではアン・サリーの曲がかかっていたのだが、爽やかな風も吹いていて体が一瞬ふわっと軽くなったような感覚に。緑道は300ｍくらいで途切れてしまったが、その先になんと1万㎡超の公園を発見。駅からほど近い場所に緑生い茂る公園があるのに驚く。高く伸びた木々の先端がしだれかかって少し暗くなった空き地で大学生と思しき若い男女がボール遊びに興じている以外は人影もまばらな不思議空間であった。</p>

<p><img alt="080506_1609~02.jpg" src="http://www.reedjp-form.com/blog_detail/080506_1609~02.jpg" width="316" height="230" /></p>

<p>散歩中に聴いていたアン・サリーのアルバムは『こころうた』。日本語の一語一語がとても心地よく響いてくる。これはわたしの音楽体験においては稀有といってもいいもの。おだやかに、そしてゆったりと、「うた」が身体にしみこんでくる感じ……。何かとお疲れの人にはおすすめの１枚。<br />
</p>]]>

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<title>建築の、新しい経験</title>
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<modified>2008-01-29T23:51:01Z</modified>
<issued>2008-01-29T23:46:18Z</issued>
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<summary type="text/plain">石上純也建築設計事務所による神奈川工科大学内の施設（工房）を、先週見学した。四面ガラス張りの平屋の建物で、床面積は約2,000㎡。建築要素としては、柱（305本！）が立ち並び、そこに何列かある細長形状のトップライトから光が射し込む、というごく単純な構成の建物だ。...</summary>
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<![CDATA[<p>石上純也建築設計事務所による神奈川工科大学内の施設（工房）を、先週見学した。四面ガラス張りの平屋の建物で、床面積は約2,000㎡。建築要素としては、柱（305本！）が立ち並び、そこに何列かある細長形状のトップライトから光が射し込む、というごく単純な構成の建物だ。</p>]]>
<![CDATA[<p>しかし、ここにとてつもなく豊かな空間がある。林立する柱（フラットバー）は、よく見ると、それぞれが向きも厚さ（16～80mm）も異なり、ランダムに配置されている。その柱たちにトップライトからの光が当たる様は、森の中で、木洩れ日が木々の幹へと射し込んでいるかのよう。しかも、そうした情景が、歩を進めるたびにまったく新しいものへと変わる。さらに、比較的間隔の狭まった柱の間を通り抜けるときの感覚は、木立ちのなかを抜けて進むのと同じ感覚だ。</p>

<p>これは、もちろん、イメージとして自然を模したというものでもないし、自然のメタファーに満足しているのでもない。自然とある種の関係を保ちながらも、建築における新しい経験をつくり出している、そんな感触があった。自然と建築が出合い、共振する場としての作品……。</p>

<p>単純な構成ながら、これを実現するために、目くるめくような、厖大かつ繊細なスタディが行われたのだろうと思う。<br />
</p>]]>
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<title>35年後のT. Rex</title>
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<modified>2008-01-17T00:05:20Z</modified>
<issued>2008-01-15T02:44:15Z</issued>
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<summary type="text/plain">このところ、とは言っても何カ月前からかははっきりしないが、懐メロを聴くことが多くなっている。聴きたくなると購入したりレンタルしたりしてまたせっせとiPodに入れているのだが、レッド・ツェッペリンをしばらく楽しんでからは、今はT. Rexにはまっている。 ...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>このところ、とは言っても何カ月前からかははっきりしないが、懐メロを聴くことが多くなっている。聴きたくなると購入したりレンタルしたりしてまたせっせとiPodに入れているのだが、レッド・ツェッペリンをしばらく楽しんでからは、今はT. Rexにはまっている。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>今日も通勤電車の中、大音量で聴きながら出社。もうノリノリである。マーク・ボランの線が細くてどちらかというと中性的な声とCMにも使われるようなキャッチーなギター・リフのコンビネーションが心地よい。</p>

<p>トヨタのVOXYのCMで使われている「20th Century Boy」もいいが、「Girl」や「Cosmic Dancer」などのアコースティックな曲もグッとくる。しかし、中学時代に「Metal Guru」がヒットしてラジオとかでさんざん聴かされた以外はT. Rexとはあまり縁がなく、10年近く前に何枚か手に入れて聴いたときも、なぜか物足りずに早々に手放してしまった。</p>

<p>不思議なことに、これが今はまったく違って聴こえてくるのである。たとえば、ゴスペルのテイストを加えるなど、ハイブリッドなセンスも冴えている。また、ロックだがマッチョでないのもよい（「Get it on」を他の演奏者―たとえばパワー・ステーション―と比較すれば瞭然）。聴いていて変に力が入らず疲れないが、聴きごたえはあるという、微妙なバランスも気に入っている。<br />
</p>]]>
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<title>久々のバルト</title>
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<modified>2007-11-13T09:09:20Z</modified>
<issued>2007-11-13T07:27:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">とても久しぶりにロラン・バルトの『テクストの快楽』を読んでいる。もともと断章形式の本なので、途中から始めて、また途中を飛ばして最後まで読み、今度は始めからという気楽な読み方なのだが、この本を読むこと自体が深い「快楽」を与えてくれる。...</summary>
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<![CDATA[<p>とても久しぶりにロラン・バルトの『テクストの快楽』を読んでいる。もともと断章形式の本なので、途中から始めて、また途中を飛ばして最後まで読み、今度は始めからという気楽な読み方なのだが、この本を読むこと自体が深い「快楽」を与えてくれる。</p>]]>
<![CDATA[<p>まったく記憶に残っていなかったのだが（このように書くことが最近どうも増えている・・・）、バルトがニーチェの言葉を引用している箇所があった。</p>

<p>「われわれは、生成の、おそらく、絶対的な流れを知覚するほど精緻ではない。永続するものは、物事を常識的な平面に要約し、還元する。われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物もこの形では存在しないのである。気は瞬間毎に新しいものである。われわれが形を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである」（沢崎浩平訳、みすず書房）</p>

<p>これは、以前、このブログで書いた内容と重なる（「ベルクソンとヨン様映画」）。『力の意志』あたりに収められた文章だろうか。どなたかご存じの方がいらしたら教えてください。</p>]]>
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<title>成瀬『乱れる』、に心乱され・・・</title>
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<modified>2007-10-26T03:46:30Z</modified>
<issued>2007-10-26T01:36:18Z</issued>
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<summary type="text/plain">成瀬巳喜男監督の『乱れる』を観た。『下妻物語』からちょうど30年前の東京オリンピック開催の年に公開された東宝映画である。サービス精神てんこ盛りの『下妻』に比べると、なんとも拍子抜けするほどの「刺激」の少なさである。...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>成瀬巳喜男監督の『乱れる』を観た。『下妻物語』からちょうど30年前の東京オリンピック開催の年に公開された東宝映画である。サービス精神てんこ盛りの『下妻』に比べると、なんとも拍子抜けするほどの「刺激」の少なさである。</p>]]>
<![CDATA[<p>主演は高峰秀子と加山雄三。戦争で亡くなった夫の家の家業を、夫の死後にも家に残って切り盛りしてきた高峰に、その義弟である加山が密かに思いを寄せているという設定である。</p>

<p>家業というのは酒屋で、庶民が生活用品を購入するいちばんの大きな手立てであった小売店がスーパーの出現で駆逐され始めていくという時代である（途中で、スーパーのせいですっかり売上げの減ったある小売店主が「スッと出てパッとなくなると思ったんだがなあ」と駄洒落を飛ばしながら嘆く場面がある）。</p>

<p>前半は地方都市でのそんな商店街での日常の描写が続くのだが、ある時、加山は抑えきることができずに自らの思いを高峰にぶちまける。すると、（売上げ減を苦にしたある小売店主の自殺などのエピソードはあるものの）変哲のない日常を淡々と描いていたかに見えた映画が一変する。</p>

<p>高峰は加山を拒みつつも、彼が不在のときには彼の姿を追い求め、彼が近くにいるときは息苦しくて耐えられないという状況に陥ってしまう（このあたり、フランソワ・トリュフォーの『隣の女』中のせりふ「ni sans toi, ni avec toi(あなたなしでは生きていけない、あたがいても生きていけない)」を想起させる）。</p>

<p>それまで、観るに退屈な――『下妻』とか刺激の多い映像を見慣れた人間にはなおさら――日常が映し出されていた画面が、高峰の、そして加山の人前では露にすることのできない激しい情動が乗り移って、見違えるほどの強度をもち始める（このあたり、高峰の感情の起伏を抑制した調子で描き切る成瀬の演出は絶妙だ）。</p>

<p>当然、「アプレゲール」の加山に対し、戦前の倫理観を引きずって抜け出すことのできない高峰は家を出て行くことになる。そしてこのあとにクライマックスが訪れ、映画は、加山を追って走り続けたあとに放心して立ちつくす高峰のクローズアップで終わる。このカットがものすごい。観るものは、その放心した高峰の表情からはもはや彼女の心のうちを読み取ることはできない。そこには、ただただ、「映画」が露呈するのみなのである。</p>

<p>（この映画での加山にアラン・ドロンが重なって見えるカットがいくつかあった。ドロンはこのころ、最高に乗っていた時期で人気も高かったんだろうと思うが、気のせいだろうか？）<br />
</p>]]>
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<title>深キョンとアンナの『下妻物語』観ました</title>
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<modified>2007-10-25T00:32:01Z</modified>
<issued>2007-10-24T01:48:37Z</issued>
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<created>2007-10-24T01:48:37Z</created>
<summary type="text/plain">『下妻物語』をＤＶＤで観た。ヤンキー娘とロリータの物語とは知っていたので（正直、両方とも得意なほうではない）、観るのはちょっと控えていたのだが、ある建築家の方にすすめられて観ることにした。 ...</summary>
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<email>m.uchino@reedbusiness.jp</email>
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<![CDATA[<p>『下妻物語』をＤＶＤで観た。ヤンキー娘とロリータの物語とは知っていたので（正直、両方とも得意なほうではない）、観るのはちょっと控えていたのだが、ある建築家の方にすすめられて観ることにした。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>監督がＣＭ出身の人と聞いて思わず納得の、デジタル感覚溢れた編集と色彩である。このデジタル感覚と漫画チックなコミカルさがうまく溶け合って魅力的な「オフビート」ムービーになっている。……これで大方説明がついてしまいそうな気もするが、実は見ようによっては二度、三度と楽しめる映画である。</p>

<p>それはこの映画の「ねじれ感覚」のせいだと思う。バロックでもゴシックでもなく、ロココを称揚しているところからしてすでにねじれが入ってはいるのだが、わたしは、この映画では男と女、つまり性が逆転しているのではないかと思う。土屋アンナ演ずるヤンキー娘は、実は男なのであり、ロリータ（深田恭子）に恋をしているのである。ヤンキー娘には、一応、本物の男への恋とその失敗というエピソードがあるのだが、土屋の役柄は男がすり替わったものだと思う。</p>

<p>これってハワード・ホークスじゃないか?  ホークスの映画では、男が女装をし、女が男に猛烈にアタックをかける。ケーリー・グラントがその男を演じているわけだが、グラントが新聞の編集長役をやっている『ヒズ・ガール・フライデイ』では、原作（戯曲）の「フロント・ページ」の記者役を男から女に変更しているのである。</p>

<p>一方的に深田になつく土屋に対して、最初は迷惑顔の深田だが、最後には「会いたいよ～」と電話で呟き、土屋の深田に対する恋が成就する。ホークスの映画（『ヒズ・ガール・フライデイ』）で、男＋男の組み合わせが男＋女に変えられていたのが、この映画では、男＋女であるべきはずのものが女＋女となっているのである。そんなの勝手な解釈でしょ～と言われるかもしれないが、実は映画の途中で、レディースの頭をはる小池栄子が土屋に吐くセリフがある。「女っていうのは人前で涙を流しちゃーいけねえんだ」というのがそれだが、これって、フツーだったら女じゃなくて男でしょ～。</p>

<p>いまどき、男のヤンキーとロリータの恋物語なんて受けないから、女に変えてみただけなのかもしれないが、こういう視点で観てみると、さらに楽しめる。ちなみに、最後の乱闘シーンでは、ロリータがヤンキーを窮地から救い出す。つまり女性(どうみても喧嘩に弱そうな深田)が戦いに敗れた男（深田にとっての男＝土屋）を大芝居を打って救い出すのですね。ここでもやはり、「ねじれ」が入っています。</p>

<p>背後に牛久の大仏様を臨む空き地で繰り広げられる乱闘シーンには、正直、こみ上げてくるものがありました。<br />
</p>]]>
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