
本名、内野正樹(うちの まさき)。1960年静岡県生まれ。82年に編集者となって以来、雑誌一筋。88年より建築の世界に入る。05年4月、DETAIL JAPANを創刊。現在、同誌編集・発行人
7月号別冊の『映画の発見!』発売から約2週間経ちました。追加注文もたくさんいただき、おかげさまで売れ行き好調です。
この号で「持続と強度 溝口映画についてのスケッチ」という短い文章を書いてみたのですが、これは内容的にはスケッチのスケッチぐらいのもので、実は架空のインタビューの形式でまとめようと思っていたのがうまくまとまらず、あのような形になったのですが、その幻の(?)溝口論(?)の冒頭を以下に引用します。興味のある人は読んでみてください。ジャン=ルイ・ゴドーというのは、略すとJLG、つまりジャン=リュック・ゴダールと同じになるのでつけてみた名前です。
『歌麿をめぐる五人の女』の軽さと田中絹代
DJ 今日は、溝口の映画を観たことがきっかけとなって日本に移住までされてしまったゴドーさんにお話をうかがえるということで楽しみにして来ました。
ジャン=ルイ・ゴドー(以下、JLG) 実は、ここ数年、映画からはずいぶん遠ざかり、映画館に足を運ぶことも少なくなってしまって、はたしていまわたしが溝口を語るにふさわしい人間なのかどうか……。しかし、今日のために、何本かは友人からビデオを借りて出来る限り見直してきました。まずは、そこで気がついたところからお話しましょうか。
DJ 何を見られたんですか?
JLG 『歌麿をめぐる五人の女』という映画がありますね。一九四六年の作品ですが、この田中絹代がいいんですよ。
DJ 溝口映画の女優というと、山田五十鈴や京マチ子、さらに木暮実千代もいますが、まずは田中絹代ということになるのでしょうか。しかし個人的には、あまりピンとこないというか……。
JLG そうですね。小津では原節子、成瀬なら高峰秀子という女優がいて、それぞれなくてはならない存在ですね。特に高峰が成瀬との長い協働の中で女優として到達した地点というのは目覚しいものがあったんじゃないでしょうか。しかし、溝口の作品の田中の場合は、この役はこの人でいいのだろうかというのがいつも頭から離れない。『雨月物語』(一九五三)の宮木役もそうだし、『お遊さま』(一九五一)や『武蔵野夫人』(一九五一)でもそうですね。でも、『歌麿』の田中にはそういう違和感があまり感じられない。ほかの登場人物もそうですが、奔放でどこかおおらかなんです。
DJ そう言えばそうかもしれない。ほかの溝口映画に比べて、『歌麿』の田中は少しアクティヴな感じも受けますね……。
JLG 『歌麿』で水茶屋の女を演じる彼女は、自分をおいて花魁と駆け落ちしてしまった男を捜しに一人で遠方まで行って強引に連れ帰ってくる。最後には、再度自分を裏切った男を花魁ともども殺してしまいますが、そのあと、「自分は間違っちゃいない、自分をだましてほどよい恋や損得の恋なんかできるもんか」、さらに、自分は「思いのまんま生き抜いたんだ」とまで言い切るんですよね。
DJ そのあたり、『浪華悲歌』(一九三六)や『祇園の姉妹』(一九三六)での山田五十鈴演ずる女性にも通ずるような気の強さにも思えますが、どうも江戸の軽さというかおおらかさがあるような感じがしますね。
JLG もうひとつ気がついたのは、田中が駆け落ちした二人を追って海だか湖だかの近くにある村まで行き着くんですが、そこでのシーンが妙に生々しい。これには、ドラマの時間にわれわれの生の時間がふっと接続されてしまったような不意打ちを受けましたね。
DJ 『東京行進曲』(一九二九)の冒頭の東京の風景もそんな感じですね。八十年近く前の東京のはずなのにそんな不思議な感触がある。
JLG 実は田中が意外にもいいと思えた映画がもうひとつあって、『西鶴一代女』(一九五二)で、体を売るところまで堕ちた田中が自分の産んだ松平家系の若殿を庭から拝顔するというシーンでのバストショットなんですが、ここでの田中は母の気高さとでもいうようなものを強く湛えていて……。
DJ そうですね。そういえば、あのシーンでの筝を使った音楽も印象的でした。
JLG 斎藤一郎という人の手になるものですが、母子の再会を盛り立てるような派手な音楽の使い方で、溝口ではちょっとああいうのは珍しいんじゃないですかね。
1:33 PM
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